ボヘミアンラプソディー

先日久しぶりに映画を見てきました。

Queenの映画、ボヘミアンラプソディー

面白そうな映画は、いや、映画に限らず舞台もミュージカルも、素敵だと思うものやおもしろいと確信できるものは1人で見るのがなんだかもったいなくて、その感動を共有したい人を(強引に、笑)誘いがちです。

 

ほら、美味しいもの食べた時に1人じゃ味気ないじゃないですの、

あの人と食べたいなーとか、

今度あの子とここに来ようって思う、あれに似ています。

 

そんなわけで観て参りました。

父がファンだったこと、それから第二次Queenブームの時に母が大ファンになったことで私もにわかながらQueenに触れながら育った人間です。

けれど、どちらかと言えばわたし自身は音楽性というよりもフレディマーキュリーの、エイズと戦ったミュージシャンとしての関心の方が強くて、バンドとしてのクイーンにはお恥ずかしながら無知なままでした。

母の仕事柄、そして私自身の学問的好奇心から同性愛者ならびにエイズの歴史には長らく関心を持っていた中でやはりフレディは語らずには通れない人物だと思います。

その分、映画の中でも彼がそのことを告白するシーンでは思わず涙が出てくるくらい胸が苦しくなりました。

ネタバレになってしまうので多くを語るのは控えたいと思いますが、物語を通して強く感じたのは、天才あるいは何か突出したものを持ち合わせている方というのは愛というものにどこか飢えているのではないかということです。

その人の価値、特に代替性のない価値であればあるほど、それはダイレクトにお金という価値に成り替わることができます。

それ故に自分自身ではなくお金に寄ってきてしまう人、

自分の偉業にしか興味を持たれないこと、

望まずとも変わってしまう周囲とそんなつもりはなくとも変わってしまう自分自身。

何か突出しているとは言え心の奥底では普通に愛されたいし、誰かを愛したいのにそれすらも叶わないことが時としてあるのかもしれません。

何もない、ただの人としてのフレディマーキュリーを愛してくれる人はいるのか、彼がその愛を探す物語だったように思います。

もし私がフレディのそばにいたとしたら、私は彼が望む愛を与えられるのだろうか。

天才としての彼ではなく1人の人間として彼をとらえ、愛することができるだろうかと考えさせられました。

とは言え観客として作品を通して、音楽、家族、仲間、恋人、それだけでは語りつくせないものと、1人の人間としてのフレディをとてもとても愛おしく感じる作品でした。

彼が欲していた愛とは違ったのかもしれませんが、今なおこうして多くの人に愛されている彼は、やはり愛されるべき人だったのだろうな、と。

余談ですが、生前彼が出演したライブの映像を拝見したのですが、映画の映像がフラッシュバックするほどでした。

日本語が下手なのでうまく伝えられなくて恐縮ですが、つまり(?)映画の再現度がとても高くて驚きました。。。

 

順序が逆かもしれませんが、思わず泣いてしまうほどに。

 

素敵な作品との出会いは人生を豊かにしてくれると思いますが、間違いなくボヘミアンラプソディーはそんな作品の一つになりました。

 

 

 

まだご覧になっていない方は、ぜひ。