私は1番にはなれない

『何においても、上から三番目の人生を送ってきた。

いつでもどこでも必ず、私の上にはふたりの女がいる。

学力においても、美しさにおいても、たぶん幸せの度合いにおいても。』

敬愛してやまない作家、宮木あや子さんの小説である「婚外恋愛に似たもの」に出てくる一節です。

 

前回の続きのお話をしたいと思います。

1番というものと私の人生が密接な関係にあったということには少しだけ、触れました。

 

 

私は、1番にはなれない人間だと思います。

 

 

むかしむかし、全校生徒50人弱の小学校の、14人のクラスメイトの中では1番頭がよかった私は(というか、比較的教育にうるさい両親の元に生まれた私は)6年間、常に1番の成績でした。

田舎のコミュニティというものは何か突出していると、あるいはクラスの中心的な女の子と相容れない部分があるとすぐにいじめのターゲットになるので私は例に漏れず小学校の頃いじめられていました。

でも、子供ながらに

『クラスで威張ってる子よりも、勉強ができる子の方が世の中的には偉い』

ということを知っていた私は学校に行きたくないなどと言うこともなく、むしろいじめっ子たちを心の中で見下しながら小学生をしていました。

 

お受験なるものをして中高一貫校に行くことを目標にしていたので勉強さえ頑張ればクラスメイトたちと過ごすこともなくなると思えば一層勉強を頑張る理由になりました。

振り返れば、勉強ができたからいじめられたのか、いじめられたから意地になって勉強にのめり込んだのかどちらが先だったかはわかりません。

 

けど、クラスメイトたちはそれなりにいい人たちだったんだと思います。

いや、教科書に落書きされたり髪の毛を切られたりと一通りのことはされたし私はいじめを容認する立場は絶対にとりたくありません。

 

しかし『私にこんなことをする低俗な人間』だと思っていたので私は彼女らを理解しようともせずとにかく嫌悪していました。

そんな私が中高一貫校に合格して、ある意味自分と同水準の生活水準と知的レベルを持つコミュニティの中の1人になりました。

 

どうなるでしょうか。

 

 

答えは簡単、

1番じゃなくなるんです。

 

 

言い方は非常に失礼ですが誤解を恐れず表現をしますね。

1から10のレベルの人たちの中に15のレベルの人がいれば突出してますが、その人が10から20のレベルの人たちの中に入れば、平均ど真ん中になります。

私の中高生活というのは、まさにそうでした。

今考えれば、取り巻く環境が変われば自分の立ち位置も変わるしその立ち位置によって周りの反応が違うことなんて当たり前だとわかりますが、たかだか12歳、そんなことがわかるはずがありません。

好きな言葉ではありませんがカーストというものは本人が望まずとも勝手に決まっていきますし、それが必ずしも自分の望む場所に行けるわけではありません。

 

自分が他者よりも劣っていることを喜ぶ人はいないと思います。

その、自分が他者よりも劣っていることをどこかしらで折り合いをつけながら納得していくのが大人になることなのだと思います。

 

前回の続きになりますが、その点、去年の私はまだ大人になりきれていなかったんだと思います。

正確には今もなりきれているわけではありませんが私よりも可愛い、私よりも頭がいい、私よりも性格がいい、私よりも愛嬌がある、私より優れている人なんてたくさんいることは、去年の私よりも知ってるし、納得できている気がします。

 

去年は、というより中学一年生から去年までは、その事実が受け止めきれなかったしそんな自分が本当に嫌いでした。

 

けど、この一年を通してそういう思いは何処かに行ってしまいました。

 

 

1番ではないからと言って、私という人間が否定されたわけではないからです。

1番じゃない私を良いと言ってくれる人だっている、

1番じゃない私を素敵だと言ってくれる人がいる、

1番じゃない私でも、誰かの幸せになることができる、

1番じゃない私でも、幸せだと胸を張って言える。

そんな当たり前のことに、最近ようやく気づけたように思います。

 

前回の続きとなりましたが、自分の中でのわだかまりがひと段落ついたということで。

1番になれないけど、1番にこだわってしまっていた私自身へのレクイエムとして残しておこうと思い、筆をとった次第です。

1番を渇望してやまないのに、それが苦しくて仕方がない誰かに何か伝われば嬉しいです。

 

 

宮地琴乃